本当に面白いかどうかはわかりませんが、鉄道の写真を中心にSNSに投稿した
ところ予想外の結果や新しく分かったことなどをまとめました。内容は全
国的なもので鉄道車両に限りません。

 面 白 投 稿 記 事 メ ニ ュ ー
  以下の項目をクリックすると各項目の説明に移動します。

掲載年月日
京急品川駅の運賃表(S42.4)に謎の路線 R2.10.15
・国鉄時代の久喜駅の移動販売 R2.10.14
高松琴平電鉄志度線房前駅今昔 R2.10.14
50年以上前の阪急の撮影地 R2.9.25
京急旧1000形の保護棒 R2.9.7
50年目の京急品川-泉岳寺駅 R2.9.6
振り子式電車のパンタグラフ R2.7.19
JR115系スリット写真による比較 R2.6.1
銀座中央通りを走る京急バス R2.5.10
北斗星の食堂車(グランシャリオ)のスリット写真 R2.5.7
・昭和54年の北海道旅行で撮影した1枚の写真 R2.4.29
昭和42年に四国で撮影した正体不明の車両 R2.4.28
レールボンドの写真 R2.4.13
秋葉原駅の平成元年の駅名標 R2.3.2
東武鉄道デラックスロマンスカー1700系と1720系の違い R2.2.7
小田急ロマンスカーSSE車の窓開閉 R1.12.25
1995年パソコンの街アキハバラ R1.11.4
尾瀬の帰り道のとある駅で撮影した写真 R1.9.19
山手線などの6扉車 H30.5.5
増結編成の幌はずしについて H30.2.24.
・尾瀬の山小屋 H28.7.24
 




北斗星の食堂車(グランシャリオ)のスリット写真

 
  寝台特急北斗星のスリットカメラによる撮影は10年以上続けていましたが、撮影場所が自宅に近い川口市内なので終点上野に到着する10分ほど前のため、何度撮影しても食堂車には誰も写っていないのが普通でした。

 ところが平成20年のある日の撮影ではたまたま食堂車に何人かの人がテーブルに座っているのを発見しました。そこで乗客がまだ残るこの写真としてアップしたところフォロアーの方からここに写っているのは乗客ではなく食堂車に勤めているコックやアテンダントのひとたちというコメントをいただきました。食堂車の営業が終わったので売り上げ計算をして日報を書いているところだというのです。

さらに北斗星を利用した人の体験談から上りの食堂車では食事が終わり居座っていてもこの川口駅から20分以上手前の久喜駅あたりでアテンダントの方から営業終了の声掛けがあるということも分かりました。



 【昭和54年の北海道旅行で撮影した1枚の写真

 
 約40年前に北海道旅行に行ったときに道内のどこかで撮影した写真ですが、撮影場所については全く記憶がなく撮影メモなども残しておりませんでした。この写真をアップしたところ、やはりというか「この白い建物が気になります」というコメントをいただきました。そこで線路わきのホテルのような白い建物という特徴を基に探してみました。

まずインターネットで道内のホテルの写真をいろいろ検索しても同様な建物は見つかりませんでした。そこで旅行した札幌から函館までの区間で函館本線の沿線をストリートビューでくまなく探してみました。

その結果、大沼駅から少し離れたところの陸橋の上で写真の白い建物を発見しました。この建物は「大沼レイクハウス」というリゾートマンションであることがわかりました。以下の「Go!」をクリックいただければ道道338号線の陸橋の上に出るので画面右側の柵越しに少し白いものが見えるのがこの建物です。


当時はこのように見晴らしがよく、反対側も遠くに雪をかぶった山並みが見えましたが、現在は線路わきに多くの樹木が茂って見晴らしは全くと言ってよいほどありません。



昭和42年に四国で撮影した正体不明の車両

 
 昭和42年12月末に四国を旅行した時に徳島県の小松島駅近くの客車区の片隅に止まっていた車両なのですが、貨車にしては運転台のような窓があり緩急車の一種かと思っていましたが、ネットにアップすることでその正体がわかりました。

これはヤ210形という3軸軌道検測車で、以前北海道で使われていたものがこの年に四国に転籍してきたばかりだったよう。まだこの時は稼働していない状態ですが、この後に昭和51年1月には廃車になったとのことで、この画像はかなりレアもののようです。



銀座中央通りを走る京急バス

 
 昭和30年代の高校生の頃、羽田空港から来る京急バスに急行の東京駅八重洲口行きがありました。空港から一般道を使い大森駅経由で鈴ヶ森のインターから首都高速に乗るというものでした。ちょうどこの写真のようなバスで、今のようなバスと異なり観光バスのような乗降扉が運転席横の1箇所のもので、女性の車掌さんも同乗していました。

この写真の京急バスは行先が「川崎駅」となっていて、羽田空港行きではありませんでした。バスに詳しい方に教えていただいたのですが、昭和40年までは都バスも同じルートでこの京急バスと同じ川崎駅までの路線バスを運行していましたが、都バスが無くなってからも京急バス独自で昭和45年まで川崎駅行きを運行していたようです。昔は比較的道路が空いていたので長い路線も維持できたのですね。

羽田空港からの東京駅八重洲口行きですが、昭和40年頃までは運行していたようです。自分は大森駅で降りて国電に乗り換えていたのですが、あるとき居眠りしてしまい運転手さんに頼んで高速道路に入る少し手前の大森海岸駅付近で降ろしてもらったという苦い経験があります。




尾瀬の山小屋

 
 ひのえまた小屋
 
 第二長蔵小屋:1階に土産物売り場があった。
 
 弥四郎小屋:1階には喫茶店があった。
 
 燧小屋

尾瀬の見晴らし地区にある山小屋について昭和52年8月4日の夜にトライエックスという高感度フィルムを使って夜間の撮影を行ったが、最近までこれらの写真の山小屋の名前がわからなかったが、尾瀬で活動されている方から写真を見てそれぞれ教えていただいた。

しかし山小屋の名前は分かったが、困ったことは自分が宿泊した山小屋がどこだったのか全然覚えていないことだ。夏とはいえ野宿するはずもないので何処かに泊まっているはずだがずっと思い出せないでいる。



尾瀬の帰り道のとある駅で撮影した写真

 
 尾瀬に行くときはフィルムカメラをいつも持っていくが、いつもフィルムは完全に使い切らないで1~2枚は残している。このときも尾瀬の帰り道で当時の国鉄の或る駅で通過列車を待ち合わせている時に撮影したものだが、駅名等は思い出せないでいた。しかしこの写真をアップすることで写真の右側の駅名標が「蓮田」であることを教えていただいた。

またこのEF57重連の列車も上野発の一ノ関行きの123列車であることも分かった。この昭和50年8月の尾瀬旅行のときの帰り道では鳩待峠から沼田に抜けて帰っていた。



レールボンドの写真

 
これは約50年前に撮影した東武伊勢崎線のレールの一部で、2本のレールの外側にU字型の線が取り付けられていたので、当時これが何かわからなくて写したもののようでした。

鉄道用のレールは暑さなどによる熱膨張が原因のレールの変形を防ぐためにレールを一定の長さに切断して隙間を開けてレール同士をつなげていますが、これだとレール同士の電気的抵抗が大きく電車のモーターを動かす電流がスムーズに流れないので、細くて柔らかい銅線をよったレールボンドなるものを切断されたレール側面に電気溶接することでレール同士の電気抵抗を低く抑えています。

なお、この写真をアップしてから分かったことですが、伊勢崎線に使われているレールは現在は幹線用の50Kgレールですが、接続金具の状況などから当時の使われていたレールは支線用に使われるもっと軽いレールのようだとのことでした。



増結編成の幌はずしについて

最近の通勤電車などではスタイルや機能にこだわるためか電車の先頭に貫通路が付くタイプが少なくなっているが、国鉄時代の電車では貫通路タイプが普通に見られた。そこで例えば基本の10両編成に5両編成を増設する場合には、基本編成の前後に増結編成を連結して運行していた。

その場合、単に車両を連結するだけでなく車両同士を幌でつなぐことで乗客が車両間を行き来できるようにしていた。これは昔の鉄道事故の教訓から非常時に乗客が隣の車両に移動できるようにしなければならないためのようであった。
 ところが115系の15両編成の場合、基本編成の7+4両の連結面については前の写真のように幌が装備され乗客も車両間を移動できていたが、増結分の4両編成についてはこの写真のように連結面の幌が隣の車両に渡されていない、つまり「幌はずし」が普通に行われていた。この状態では乗客は車両間を移動できないでいた。

これは編成の増結や切り離しが終点の電車区で頻繁に行われるため作業の短縮や人手不足によるものと思われる。最近のJR特急型電車ではこの幌の取付作業も自動で行われる車両が登場しているが、JRの通勤電車では地方に行くと貫通路タイプもまだ残っているようであるが、最近の通勤型車両は貫通路がないタイプなので、このような状態での運用は全て無くなっている。

私鉄では東武鉄道が昔から増結車両の幌取付を地道に行っているが、小田急など他の私鉄では貫通路タイプの車両でも幌自体を取り付けていない車両がほとんどで、またJRと同様に貫通路のないタイプの車両が増えてきている。

普通のカメラでは走行中の編成の中間車両の連結部分など撮る人もいないし撮ることもできないわけだが、編成の全側面を撮影できるスリットカメラで撮影したからこそわかった事実である。



振り子式電車のパンタグラフ

 2018年4月のラストランで引退した中央線のE351系特急「スーパーあずさ」では制御付き振
子列車が最長の12両編成で運転されていた。 そのパンタグラフは台車直結の支持台に載せ
る方式が考案され、後にJR九州の883系と885系でも採用されたが、いずれも日立製である。
写真はE351系、883系、885系の順
 
 E351系では台車とパンタの台座を直結する柱のようなものがはっきりと見えます。
 
JR九州883系交流特急型電車
 
JR九州885系交流特急型電車




山手線などの6扉車

6扉車の登場は平成2年末の山手線の11両化から始まり、京浜東北線などの他線区等に広がりを見せましたが、混雑状況の緩和やホームドアの設置のために最後まで残っていた総武緩行線の6扉車についても2020年3月で運用から離脱しました。6扉車は言わば平成という時代を駆け抜けた車両だったと思います。
 
 
 




東武鉄道デラックスロマンスカー1700系と1720系の違い

 
 この写真は東武鉄道の1700系(モハ1706)と1720系(モハ1726)で昭和51年に撮影しました。昭和31年に登場した1700系はこれとは全く別の風貌をした電車でしたが、昭和35年になって新に登場した1720系と同様な電車とするために昭和46年に台車や床下機器類はそのままで新たに1720系と同じ車体に取り換えられました。この2つの写真をご覧いただければ、その違いがお分かりいただけると思ます。
 
 なお、台車についてはその後1700系も1720系と同じものに交換されております。




1995年パソコンの街アキハバラ】

 
 撮影は1995(平成7)年3月5日で電気街口ではアキハバラデパートも見えます。ここの3階のデパート口の改札もよく利用しました。この年の年末にはWindows95が発売になった年で、この秋葉原でも発売のイベントが行われていました。
 
 正面が1枚目写真の駅前の電気街口です。この日は日曜なので歩行者天国の車道から写しました。お店の宣伝を見ても当時はパソコンの街、秋葉原でした。
 
 3枚目は昭和通口です。日比谷線の出入り口も見えます。この年は間もなく地下鉄サリン事件が起こった年でした。日比谷線もサリンを運んだ実行犯が乗車した路線の1つでした。



JR115系スリット写真による比較

 普通のカメラで長編成の列車の中間車などを撮っても、撮影角度の不揃い、車両の大きさの不揃い、周辺に余計な風景や必要ないものが写ったりで、撮影したコマ写真を並べてもなかなか比較しやすい画像になりません。
その点、スリットカメラは撮影場所が異なっていても車両だけがほぼ同一の大きさで撮影できるので、車両同士の比較写真が簡単に作成できます。この点を考慮してJR115系の比較写真を作りましたのでご覧ください。
 115系比較:東北線関係で見られたのが115系0番台、300番台、1000番台で比較しやすいように側面写真を並べてみました。同じようでよく見るといろいろなところに違いがあるようです。最初にクハ115をアップします。
 ざっと見ても屋根上の配置クーラの違い、トイレ付近の窓の形状等の違い、ドアのHゴムの色の違いなどについて容易に比較することができます。


50年目の京急品川-泉岳寺駅


1968(昭和43)年6月21日に京急と都営地下鉄の直通運転が開始されました。この写真はその日に撮影したもので都営5000形の急行京浜川崎行きが泉岳寺方面から京急の品川駅に向かって来ているところです。右側の急行を表示する幕が壊れていて中の蛍光灯が見えています。初日から小さなトラブルですね。
2018(平成30)年7月に撮影した上の写真と同じ場所です。約50年後に同じ場所で撮影しました。同じ都営地下鉄ですが、50年後は都営5200系が走っていました。またその行先は京急川崎ではなく羽田空港です。
昭和43年6月21日の泉岳寺駅です。泉岳寺駅は南北に出入口がありますが、これは南側の品川寄りの改札口です。地下鉄線内は初乗りは30円ですが、当時京急線内は初乗り運賃は20円でした。またこの時は西馬込方面はまだ開通していません。
同じく50年後の平成30年7月に撮影したもので同じ泉岳寺駅の品川寄りの改札口です。50年後の違いは自動改札や券売機等の違いがありますが、このほか天井が低くなっているのは駅の冷房化工事によって配管等を天井内に取り付けているためです。この泉岳寺駅は昨年開業した山手線の新駅「高輪ゲートウエイ」駅に近いため駅の改良工事が行なわれていて、将来、新駅まで地下通路により往来ができるようになるようです。




秋葉原駅の平成元年の駅名標

これは平成元年5月に秋葉原駅の京浜東北線南行のホームで撮影したものです。遠景を見ればわかるようにこの当時の秋葉原は電気街の街でした。国鉄からJRになって数年ですが、JR駅の駅名標について国鉄時代のひらがな中心の駅名標からカラフルな駅名標に替わっていった時期でした。当時新宿駅とこの秋葉原駅が最初に新しい駅名標に変えられたとのことでした。
ところがこの写真をアップしたのちにこの駅名標の製作に携わったと思われる方からこれが試作品であることを明かされました。細長い駅名標ですが下の部分をよく見るとわずかですが板自体が湾曲しているのです。量産化された新しい駅名標はこのような湾曲はないようです。また古い駅名標にも付いていた「山」や「区」の記号もまだ未記載でした。
平成28年9月7日に秋葉原駅の同じ京浜東北線の駅名標を撮りに行きましたが、やはり試作品である駅名標は取り替えられその形が変わっていました。また、ちょうど駅名標の真下で工事が行なわれていたので以前とは同じ位置での撮影はできませんでした。上の屋根も工事で変えられたようで取付場所の移動もあったかもしれません。現在の駅名標は全体が黒い枠で囲まれ字の色も濃くなっています。





小田急ロマンスカーSSE車の窓開閉

特急型電車で側面の窓が開閉できる車両としては国鉄時代に製造された185系ぐらいしか思いつかなかったのですが、Twitterの情報で小田急のSSE(SE)車も元々非冷房車としての設計だったので窓も開閉可能な設計だったことを知りました。
ただし昭和59年に行われた車体更新工事後は窓が固定され開閉できない構造になったようです。
そこで自分がスリットカメラで撮影したSSE車は昭和54年頃だったので撮影したいくつものスリット写真を精査したところ1箇所だけ窓が開けられている車両の画像を発見しましたのでアップしました。左側の車輛の左から2つ目の窓がわずかながら開いているので、ご覧ください。
撮影時は日差しが強い晴天で日差しの当たる側の窓ではカーテンが多く下げられていますが、窓を少しでも開けているのはこの3031編成の中でこの1箇所だけでした。このように窓がほとんど開けられていないのは、乗客の方が窓が開くのを知らないのか、それとも車内に冷房が入っているので開けないのかわかりませんでした。




京急旧1000形の保護棒

 京急の旧1000形は昭和30年代に登場していますが、初期の頃の車両では2段式の客室窓の下段が上の方に全開したことから、窓から手や体の一部が出て危険なことがないよう下段の窓に2本の保護棒が取り付けられていました。この写真にも側面の窓に2本の保護棒が取り付けられているのが見えます。その後、車両の下段の窓について全開しないように改良工事がされたことからこの保護棒についても取り払われています。
 話が変わりますが 線路の向こうに見える乗用車は初期の日産「ブルーバード」ではないでしょうか。


50年以上前の阪急の撮影地

 昭和42年9月の関西撮影旅行の写真をアップしようとしたが、撮影場所が阪急のどの路線のどこの駅なのか全く分からないので、駅不明ということでアップさせていただいたが、間もなく関西の地元の鉄道ファンの方から詳しく教えていただくことができた。この写真は宝塚線の服部駅(現在の服部天神駅)であるという。電車は後追いで池田に向かっていることがわかるが、先の線路が左にカーブしていることや構内踏切があることが決め手となったようだ。
この写真も上の写真に続くコマとして写っていたが、場所は阪急最大の駅である梅田の7番線のホームとのことである。自分はてっきりどこかの途中駅と思っていたが、この時は発車時間前なので運転士も姿が見えないときであったようだ。またこの時は架線電圧が600Vのときで翌月に1500まで昇圧する時期でこの3000系の電車は床下のナイフスイッチを動かすだけでそれができたようだ。




【高松琴平電鉄志度線房前駅今昔

 これは数年前にグーグルのストリートビューで琴電の志度線を捜していた時に同線のレールの上を移動できるビュー画像で現在の房前駅をキャプチャしたもので、ホームが延長されたり駅名標や待合室も新しくなっていた。下の写真と撮影位置が近い。
 
 これは昭和42年12月に四国旅行に行ったときに志度線の房前駅で撮影したもので、ホームには廃車となった単車のボディが待合室代わりとなっていた。この車両を調べたところ琴電の前身の東讃電気鉄道の車輛であった。昭和30年代に廃車となりここまで牽引されてきて、ボディだけ再利用するためホーム上に移動されたものであろう。




国鉄時代の久喜駅の移動販売

 昭和53年4月に久喜駅構内で撮影しものだが、SNSにアップしても久喜駅で駅弁等の販売について知っている方は誰もおられなかった。古い時刻表を見ても戦前には1件弁当屋があったようだが、戦後以降は存在していないようだ。この販売員の運んでいるものも弁当ではなくお菓子や飲み物のようだ。国鉄退職者など久喜駅に親しい人が請け負って構内販売をしていることが考えられた。
ただそれとは別に現在の久喜駅利用者が驚いたのはホームと電車のドア下との段差であった。
 




京急品川駅の運賃表(S42.4)に謎の路線

これは昭和42年4月末に京急品川駅の運賃表を撮影したものの一部だが、料金表は品川駅を起点に始まり当時の終点三浦海岸駅まで掲載されていたが、さらにその上に日東交通線として8つの駅名と料金が書かれていた。この運賃表では京浜久里浜駅が久里浜港まで結ばれてさらに点線で金谷にまでつながっていた。これは東京湾フェリーを利用して房総半島につながるものと理解できたが、日東交通線とは聞きなれない名前だった。
当時の房総半島の南房総の地域は国鉄の路線が敷かれていたが非電化のローカル線であった。これは現在の内房線であるが、当時は単線で短いディーゼルカーが走っていて列車本数も少なく、とても便利と呼べるものではなかったと思われる。ということでこの日東交通線というのは房総半島南部を走る定期路線バスのことだった。京浜久里浜から金谷までは東京湾フェリーだが実質185円(385-200)が当時のフェリー片道料金ということだ。まだ東京湾アクアラインもなかったので房総半島南部への近道ということで自動車によるフェリーの利用が多い時期だった。なお、最近は以前に比べ利用者が減り経営が悪化しているようだ。