本当に面白いかどうかはわかりませんが、鉄道の写真を中心にSNSに投稿した
ところ予想外の結果や新しく分かったことなどをまとめました。内容は全
国的なもので鉄道車両に限りません。

 面 白 投 稿 記 事 メ ニ ュ ー
  以下の項目をクリックすると各項目の説明に移動します。

掲載年月日
北斗星の食堂車(グランシャリオ)のスリット写真 R2.5.7
・昭和54年の北海道旅行で撮影した1枚の写真 R2.4.29
昭和42年に四国で撮影した正体不明の車両 R2.4.28
銀座中央通りを走る京急バス R2.5.10
尾瀬の山小屋 H28.7.24
尾瀬の帰り道のとある駅で撮影した写真 R1.9.19
レールボンドの写真 R2.4.13
増結編成の幌はずしについて H30.2.24.
振り子式電車のパンタグラフ R2.7.19
山手線などの6扉車 H30.5.5
東武鉄道デラックスロマンスカー1700系と1720系の違い R2.2.7
1995年パソコンの街アキハバラ R1.11.4
以下続く




北斗星の食堂車(グランシャリオ)のスリット写真

 
  寝台特急北斗星のスリットカメラによる撮影は10年以上続けていましたが、撮影場所が自宅に近い川口市内なので終点上野に到着する10分ほど前のため、何度撮影しても食堂車には誰も写っていないのが普通でした。

 ところが平成20年のある日の撮影ではたまたま食堂車に何人かの人がテーブルに座っているのを発見しました。そこで乗客がまだ残るこの写真としてアップしたところフォロアーの方からここに写っているのは乗客ではなく食堂車に勤めているコックやアテンダントのひとたちというコメントをいただきました。食堂車の営業が終わったので売り上げ計算をして日報を書いているところだというのです。

さらに北斗星を利用した人の体験談から上りの食堂車では食事が終わり居座っていてもこの川口駅から20分以上手前の久喜駅あたりでアテンダントの方から営業終了の声掛けがあるということも分かりました。



 【昭和54年の北海道旅行で撮影した1枚の写真

 
 約40年前に北海道旅行に行ったときに道内のどこかで撮影した写真ですが、撮影場所については全く記憶がなく撮影メモなども残しておりませんでした。この写真をアップしたところ、やはりというか「この白い建物が気になります」というコメントをいただきました。そこで線路わきのホテルのような白い建物という特徴を基に探してみました。

まずインターネットで道内のホテルの写真をいろいろ検索しても同様な建物は見つかりませんでした。そこで旅行した札幌から函館までの区間で函館本線の沿線をストリートビューでくまなく探してみました。

その結果、大沼駅から少し離れたところの陸橋の上で写真の白い建物を発見しました。この建物は「大沼レイクハウス」というリゾートマンションであることがわかりました。以下の「Go!」をクリックいただければ道道338号線の陸橋の上に出るので画面右側の柵越しに少し白いものが見えるのがこの建物です。


当時はこのように見晴らしがよく、反対側も遠くに雪をかぶった山並みが見えましたが、現在は線路わきに多くの樹木が茂って見晴らしは全くと言ってよいほどありません。



昭和42年に四国で撮影した正体不明の車両

 
 昭和42年12月末に四国を旅行した時に徳島県の小松島駅近くの客車区の片隅に止まっていた車両なのですが、貨車にしては運転台のような窓があり緩急車の一種かと思っていましたが、ネットにアップすることでその正体がわかりました。

これはヤ210形という3軸軌道検測車で、以前北海道で使われていたものがこの年に四国に転籍してきたばかりだったよう。まだこの時は稼働していない状態ですが、この後に昭和51年1月には廃車になったとのことで、この画像はかなりレアもののようです。



銀座中央通りを走る京急バス

 
 昭和30年代の高校生の頃、羽田空港から来る京急バスに急行の東京駅八重洲口行きがありました。空港から一般道の大森駅経由で鈴ヶ森のインターから首都高速に乗るというものでした。ちょうどこの写真のようなバスで、今のようなバスと異なり観光バスのような乗降扉が運転席横の1箇所のもので、女性の車掌さんも同乗していました。

この写真の京急バスは行先が「川崎駅」となっていて、羽田空港行きではありませんでした。バスに詳しい方に教えていただいたのですが、昭和40年までは都バスも同じルートでこの京急バスと同じ川崎駅までの路線バスを運行していましたが、都バスが無くなってからも京急バス独自で昭和45年まで川崎駅行きを運行していたようです。昔は比較的道路が空いていたので長い路線も維持できたのですね。

羽田空港からの東京駅八重洲口行きですが、昭和40年頃までは運行していたようです。自分は大森駅で降りて国電に乗り換えていたのですがあるとき居眠りしてしまい、運転手さんに頼んで高速道路に入る少し手前の大森海岸駅付近で降ろしてもらったという苦い経験があります。




尾瀬の山小屋

 
 ひのえまた小屋
 
 第二長蔵小屋:1階に土産物売り場があった。
 
 弥四郎小屋:1階には喫茶店があった。
 
 燧小屋

尾瀬の見晴らし地区にある山小屋について昭和52年8月4日の夜にトライエックスという高感度フィルムを使って夜間の撮影を行ったが、最近までこれらの写真の山小屋の名前がわからなかったが、尾瀬で活動されている方から写真を見てそれぞれ教えていただいた。

しかし山小屋の名前は分かったが、困ったことは自分が宿泊した山小屋がどこだったのか全然覚えていないことだ。夏とはいえ野宿するはずもないので何処かに泊まっているはずだがずっと思い出せないでいる。



尾瀬の帰り道のとある駅で撮影した写真

 
 尾瀬に行くときはフィルムカメラをいつも持っていくが、いつもフィルムは完全に使い切らないで1~2枚は残している。このときも尾瀬の帰り道で当時の国鉄の或る駅で通過列車を待ち合わせている時に撮影したものだが、駅名等は思い出せないでいた。しかしこの写真をアップすることで写真の右側の駅名標が「蓮田」であることを教えていただいた。

またこのEF57重連の列車も上野発の一ノ関行きの123列車であることも分かった。この昭和50年8月の尾瀬旅行のときの帰り道では鳩待峠から沼田に抜けて帰っていた。



レールボンドの写真

 
これは約50年前に撮影した東武伊勢崎線のレールの一部で、2本のレールの外側にU字型の線が取り付けられていたので、当時これが何かわからなくて写したもののようでした。

鉄道用のレールは暑さなどによる熱膨張が原因のレールの変形を防ぐためにレールを一定の長さに切断して隙間を開けてレール同士をつなげていますが、これだとレール同士の電気的抵抗が大きく電車のモーターを動かす電流がスムーズに流れないので、細くて柔らかい銅線をよったレールボンドなるものを切断されたレール側面に電気溶接することでレール同士の電気抵抗を低く抑えています。

なお、この写真をアップしてから分かったことですが、伊勢崎線に使われているレールは現在は幹線用の50Kgレールだが、接続金具の状況などから当時の使われていたレールは支線用に使われるもっと軽いレールのようだとのことでした。



増結編成の幌はずしについて

最近の通勤電車などではスタイルや機能にこだわるためか電車の先頭に貫通路が付くタイプが少なくなっているが、国鉄時代の電車では貫通路タイプが普通に見られた。そこで例えば10両編成に5両編成を増設する場合には、基の編成の前後に増結編成を連結して運行していた。

その場合、単に車両を連結するだけでなく車両同士を幌でつなぐことで乗客が車両間を行き来できるようにしていた。これは昔の鉄道事故の教訓から非常時に乗客が隣の車両に移動できるようにしなければならないためのようであった。
 ところが115系の15両編成の場合、基本編成の7+4両の連結面については上の写真のように幌が装備され乗客も車両間を移動できていたが、増結分の4両編成については下の写真のように連結面の幌が隣の車両に渡されていない、つまり幌はずしが普通に行われていた。この状態では乗客は車両間を移動できないでいた。

これは編成の増結や切り離しが終点の電車区で頻繁に行われるため作業の短縮や人手不足によるものと思われる。最近のJR特急型電車ではこの幌の取付作業も自動で行われる車両が登場しているが、JRの通勤電車では地方に行くと貫通路タイプもまだ残っているようであるが、最近の車両は貫通路がないタイプなので、このような状態での運用は全て無くなっている。

私鉄では東武鉄道が昔から増結車両の幌取付を地道に行っているが、小田急など他の私鉄では貫通路タイプの車両でも幌自体取り付けていない車両がほとんどで、JRと同様に貫通路のないタイプの車両が増えてきている。

普通のカメラでは走行中の編成の中間車両の連結部分など撮る人もいないし撮ることもできないわけだが、編成の全側面を撮影できるスリットカメラで撮影したからこそわかった事実である。



振り子式電車のパンタグラフ

 2年ほど前に引退した中央線のE351系特急「スーパーあずさ」では制御付き振子列車が最長の
12両編成で運転されていた。 そのパンタグラフは台車直結の支持台に載せる方式が考案され、
後にJR九州の883系と885系でも採用されたが、いずれも日立製である。写真はE351系、883系
、885系の順
 
E351系では台車とパンタの台座を直結する柱のようなものがはっきりと見えます。
 
JR九州883系交流特急型電車
 
JR九州885系交流特急型電車




山手線などの6扉車

6扉車の登場は平成2年末の山手線の11両化から始まり、京浜東北線などの他線区等
に広がりを見せましたが、混雑状況の緩和やホームドアの設置のために現在では総
武緩行線を残すのみとなりました。6扉車は言わば平成という時代を駆け抜けた車
両だったと思います。
 サハ204-22のみインドネシアで現役です。それ以外の3両は解体されました。
 
 




東武鉄道デラックスロマンスカー1700系と1720系の違い

 
 この写真は東武鉄道の1700系(モハ1706)と1720系(モハ1726)で昭和51年に撮影しました。昭和31年に登場した1700系はこれとは全く別の風貌をした電車でしたが、昭和35年になって新に登場した1720系と同様な電車とするために昭和46年に台車や床下機器類はそのままで新たに1720系と同じ車体に取り換えられました。この2つの写真をご覧いただければ、その違いがお分かりいただけると思ます。
 
 なお、台車についてはその後1700系も1720系と同じものに交換されております。




1995年パソコンの街アキハバラ】

 
 撮影は1995(平成7)年3月5日で電気街口ではアキハバラデパートも見えます。ここの3階のデパート口の改札もよく利用しました。この年の年末にはWindows95が発売になった年で、この秋葉原でも発売のイベントが行われていました。
 
 正面が1枚目写真の駅前の電気街口です。この日は日曜なので歩行者天国の車道から写しました。お店の宣伝を見ても当時はパソコンの街、秋葉原でした。
 
 3枚目は昭和通口です。日比谷線の出入り口も見えます。この年は間もなく地下鉄サリン事件が起こった時でした。日比谷線もサリンを運んだ実行犯が乗車した路線の1つでした。