まず、私が鉄道車両撮影用のスリットカメラの製作を思い立った経緯についてお話します。

 昭和40年代に科学の実験を兼ねたNHK教育テレビの番組で道路を走行する自動車
を側面から特殊なカメラで撮影した作品が紹介されました。その作品では写っている自
動車がプレスで前後から押しつぶされたような形をしていました。なぜそうなるのかは説
明を聞いて理解できましたが、フィルムを巻く速度をもっとうまく調整すればもっと鮮明な
写真ができるのではないかと感じました。そしてこのカメラの原理を応用して列車側面を
撮影できないものかと考えていました。この番組はスリットカメラの実験を放送していたも
のと思いますが、このときは「スリットカメラ」という呼び名も知りませんでした。

 その後、昭和50年代に入ってから近くの図書館で「応用写真」(葛Z報堂、鈴木陽著、
昭和43年3月出版)という本を読んでいたところ、この原理のカメラを「スリットカメラ」とい
う呼び名であることを知るとともに、フランス製の名称不明のカメラであるが、このスリット
カメラの構造を持つカメラで貨車の側面の番号を撮影し、出発した証拠として写真を荷主
に送るため使われていたというのを読んで、鉄道車両の撮影のためにも使えることを確
信しました。


 ホームページの中で私がスリットカメラを30年前から撮影している旨記載しておりますが、途中
10年間以上の撮影のブランクがあり、30年間毎年引き続いて撮影をしていた訳ではありません。
そこで、今までの私のスリットカメラの撮影・製作活動について年代別に紹介させていただきます。
   
昭和50年代前半 昭和50年代後半 昭和60年代から平成5年頃まで 平成6年から現在まで
上の年代から希望するものをクリックすれば該当の箇所に移動できます。

昭和50年代前半

 昭和50年代初めには新宿カメラ戦争といわれたようにヨドバシカメラを初めとして大型
カメラ店がいくつも新宿駅周辺に進出し話題を呼びましたが、そのような広告にも影響
されて私も大型カメラ店でモノクロですが写真の現像引き伸しの設備を一式購入し暗室
作業を経験してみました。写真をすべて自家処理できることは、スリット写真のような特
殊な写真を扱う上で必要なことと考えたからです。
 この頃、私はまずスリットカメラの第1号機を完成させ、関東近辺の私鉄、東北本線な
どの国鉄の車両を撮り歩きました。撮影後現像したフィルムを引伸し機を使って四切り
の印画紙などに焼き付けましたが、横に長く印画紙をつなげていくことはかなり難しく、
つなぎ目がうまく接続できず、スリット写真の難しさを痛感しました。
 昭和53年頃には撮影も慣れて作品も少したまってきたので、作品の一部(東武6000
系)を鉄道ジャーナル誌に4切り4枚分の投稿写真として応募するとともに、鉄道ファン誌に
はスリットカメラに関する自作原稿を送りました。鉄道ジャーナル誌には53年7月号に写真
が掲載され、鉄道ファン誌には昭和54年2月号と3月号に分けて投稿記事が掲載され
ました。さらにその後、鉄道ファン誌に掲載された記事によって写真工業誌から掲載依
頼をいただき、同誌の昭和55年1月号と2月号に掲載されました。
 この頃は、スリットカメラコレクションに見られるようにブルートレインのブームに乗ってス
リット写真も一種のブームとなり、ロングトレインプリントなどいろいろな商品が発売されま
した。スリット写真のブームは誰が火付け役となり牽引役となったのか定かではありませ
んが、お互いに影響しあっていたのかもしれません。


昭和50年代後半

 昭和50年代後半は、スリット写真をあまり撮らなくなりました。それはスリットカメラが故
障したりしてその修理が必要になったことや当時ようやく国内で発売が開始されたパソコン
を購入することにより、パソコンに多くの時間を取られるようになったからです。ただ当時
のパソコンはCPUは8ビットでメモリも1メガバイトもなく、写真画像を扱うことができるレベ
ルにはありませんでした。
 ただこの時期にはスリット写真とは関係ありませんが、線路近くに光センサーを配置する
ことで通過する列車を自動撮影する装置やモータードライブを装着したカメラで列車通過時
に自動的に流し撮りする装置などの製作をしておりました。


昭和60年代から平成5年頃まで

 この期間にはスリットカメラの撮影ばかりでなく鉄道車両の撮影もほとんどやっておりま
せん。ただ、パソコンを16ビット機に買い替えたので、モノクロのハンディーイメージスキャ
ナーを使って昔撮影したスリット写真のフィルムの画像を直接読みこんで、イラスト画像に
加工することでパソコンを使った横長のイラスト画像の製作を行いました。イラストの作品と
しては小田急のNSE車、SE車、9000系、東武DRCなどがあります。このうち小田急9000系
は写真工業誌の平成5年11月号に投稿記事とともに掲載されました。(下の写真参照)
 この頃のパソコンの性能ではイラストの製作が限界でしたが、将来、パソコンがもっと高性
能になれば高密度の写真画像を扱えるようになり、スリット写真もプリンタで自由に製作する
ことができる時代が来るものと信じておりました。

 上の右側の写真は小田急9000系で、上側がフィルムをもとに写真を現像引伸しをして、
印画紙をパネルに貼ったもので、下側がフィルムをスキャナーで読み取り2値化してパソ
コンに取り込みプリンタで印刷したもので、作成の元となった画像は同じものです。同様
な方法で作成したのが、左側の小田急NSE車で一部着色してあります。


平成6年から現在まで

 平成5年頃から関東のJRでも209系など通勤電車の新型車が登場しはじめ、新旧の
車両の撮影がしたいという意欲が沸くとともに、スリットカメラも故障のままずっと使えな
い状態が続いていたので、新たにスリットカメラを製作することになりました。新しいスリッ
トカメラは1眼レフカメラをもとに改造し製作しました。この新しいスリットカメラで平成7年
から撮影を開始しましたが、光線漏れや縦じま模様の発生に悩まされ、なかなか満足の
行く撮影はできませんでした。ただこのような中でJTBの雑誌「旅」、平成8年2月号に自
作のスリットカメラで鉄道車両を撮影する人物として掲載していただきました。
 平成8年末にインターネットをはじめるとともに「スリットカメラ鉄道写真館」のホームペー
ジを開設しました。平成12年には5台目のスリットカメラ5号機を製作しましたが、このカメラ
で従来にない縞模様のない綺麗な画像を得ることができました。

 さらに平成11年末にエプソンからロール紙が使えるプリンタが発売され、翌年にそのエプ
ソンのプリンタを購入して長編成列車プリントを完成させました。

 そのプリントをエプソン主催の写真コンテストに北斗星2号を撮影した長編成列車の作品
として応募したところ奨励賞をいただきました。その後、平成16年1月になりYahoo!の本家
にスリットカメラ鉄道写真館の英語版が登録されました。平成20年9月11日にエイ出版社
から発行されたCAMERA magazine no.8 My enjoy cameraLifeで「スリットカメラ一筋30年
究極の趣味世界」というタイトルで作品等が紹介されました。

 また、平成21年12月19日から平成22年2月21日までの間、広島市現代美術館で開催さ
れた「一人快芸術」という特別展に19人のアーティストの一人として参加し、70余の作品を
出展いたしました。また、この出展を機に日経新聞にも取り上げられ、平成22年1月22日
に全国版の文化面に記事と写真が掲載されました。

 平成22年6月13日に大阪ほんわかテレビの取材を受け、初めてスリットカメラで列車を
撮影するシーン等が同月20日に関西地方のテレビで放映されました。また、11月には仙
台市宮城野区で開催された仙台ゆめフェスタ2010にも多くの作品を出展いたしました。
 さて5号機は平成12年より使い始めて10年以上が経ち、途中何度か修理をしましたが、
さすがに長年の使用で、いつ使用不能となってもおかしくない状態になってきたので、平
成17年頃から6号機の製作を考え、平成20年4月には巻上げレバーの故障も直おり、5号
機に代わるスリットカメラとして使い始めましたが、製作中や撮影中に合計5回も落下事故
を起こして、そのためギヤ部分に修復できない不具合が生じ、製作当初は見られなかった
縦縞模様が何度修理しても現れる状態が続いたので、6号機の修理を諦め、平成23年5月
より7号機の製作に着手しました。

 6号機については巻き取り軸を細くしたことから巻き取り速度の漸増を考慮して新しいコン
トローラーの製作にも着手しました。このコントローラーには、サーミスタを利用した自動速
度低減装置も組み込みましたが、このコントローラーは7号機にも使用できます。

 平成23年8月22日には読売新聞埼玉版にも記事及び写真が掲載されました。

平成27年8月の寝台特急北斗星の廃止にちなんでイカロス出版という雑誌社に廃止前の北
斗星のスリットカメラによる撮影を請負い、雑誌社支給のポジカラーフィルムで蓮田付近で撮
影を行なった。2015秋 Vol59でJTrainという雑誌にスリット写真が掲載された。

平成29年5月1日、JR東日本の豪華寝台列車、トランスイート四季島を川口付近で撮影し、
先頭部分の画像が翌日のフジテレビのとくダネで5秒程度放送された。


当ホームページ開設直後(平成9年1月)のトップページです。
ホームページ名も当初は「スリットカメラによる鉄道写真館」でした。